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2019年2月12日
女子競泳の池江璃花子さんがご自身のTwitterで
白血病である事を告白されて本当に驚きました。
ハードな練習をよく耐えましたね!!
相当辛かったはず。
親御さんの心中お察しします。
なんで大きな目標を持った人に
こんな試練を与えるのかと悲しくてやりきれないです。
実は、私の次女が過去に白血病になりました。
だから、とても他人事とは思えず私自身の経験を振り返ってみました。
2010年10月のある日
私は、その日は仕事が平日の休みで自宅でくつろいでいた。
すると電話が鳴り「どうせ勧誘の電話だろ。」くらいな感じで電話を取りました。
それは次女が通学する中学校の担任の先生からのもので
「お父さん、娘さんが学校で倒れたのですぐに迎えに来てください。」と
切迫感の電話ある内容でした。
当時、次女は中学一年生で数日前に13歳になったばかり。
一週間前くらいから体調がすぐれず「なんか変だね」と家族で話していた矢先の
出来事だった。
そして、以前に妻が勤めていた病院へ連れて行き検査をしましたが
結果は数日かかるので帰宅し、学校は休んで結果を待っ事になりました。
数日後、結果を妻から「白血病で即入院だって。」と聞かされ
白血病=不治の病(死)と受け止めてしまった私は、家のリビングで大きく動揺し取り乱してしまいました。
今考えるとぞっとするのですが、娘は部活でバレーボール部に入っていて
毎日帰宅するとリビングでぐったりしていて、「よっぽど疲れんだな!体力無いのかな?」と
思ってしまって
実は既にこの時から症状があって相当しんどいのに我慢していたのではと?
更に、夏の部活で真っ黒に日焼けしていたため顔色すらわからずに気付いてあげることが
出来なかったのではと自分を責めました。
その後は入院にむけてバタバタした感じでしたが、当の本人はいたって冷静で
「治しゃいいんだろ!!」と事の重大さを分かってんのかって位大口叩いていました。
入院=すぐ治療ではなく、まずは髄液を採取し白血病の種類の判定をする検査からでしたが
これはかなりの痛みが伴ったらしく、大口を叩いた娘が唯一1回だけ私達夫婦の前で涙を流しました。
急性骨髄性白血病
検査の結果正式な病名が告げられ、治療内容も抗がん剤治療をしていくことから始まった。
抗がん剤自体は普通の点滴液のような感じですが、やはり副作用で脱毛が起こり
目に見えての変化はかなりのショックで、バンダナを巻いてカモフラージュしました。
仕事の合間に様子を伺うメールをしたのですが
「ころころ買ってきて!」が娘からのリクエストでしたね(苦笑)
他にも薬の副作用でムーンフェイスになり、元々小顔でシャープなフェイスラインだったのに
どんどん真ん丸な顔へと変化してしまったのです。
帰宅しても次女が居ない日々
当時、長女は高校三年生で大学受験を迎える身でしたが
妹の事を心配しながらも良く頑張りました。
次女の闘病最初の頃はほんと辛かった。
私と妻と長女三人での夕食時、誰もしゃべることなく淡々とした空気感だったのが
一人が泣き出し、つられて三人で泣きながら夕食を取った事もありました。
毎日、いて当たり前の家族が居ないことがこんなに辛いなんて。
結局、次女の闘病生活は一年二か月と長期に渡ることになりました。
本当の大変さはこの後から!!
家族として出来る事=医療の力と本人の立ち向かう姿勢を信じる事しかできません。
あとは、少しでも本人と寄り添うため妻は仕事を休業し
長女は受験勉強に専念。自分は休みの日は面会、その他の日もなるべく仕事の後に
病院出向くようにしましたが、長期戦になるため無理はしないようにしました。
しかし、小児の入院病棟って様々な病気を抱えた子供達がこんなにも居るのかと驚き、
うちの娘の様に抗がん剤の副作用で脱毛したもっと小さな子供達も目の当たりにしました。
中でも一番ショックな出来事があり、ここに書くのも辛いのですが
これが医療現場の現実であるとご理解下さい。
娘は通常は六人ほどの大部屋で入院生活を送っていたのですが
抗がん剤投与や状態によっては個室に移されて過ごしました。
同じように治療の状態で個室に入る子達の中に、いつも泣いている子がいたのですが
その子は娘と同じ中学生の女の子で、その鳴き声は廊下や娘の病室にまで響き渡り
「またあの子泣いてるね」と娘と話しました。
私が病院から帰る際も、その部屋を通りながらとても辛い気持ちで後にしました。
その翌日、私は仕事から帰宅し妻は娘の病院から帰宅。
「パパ、あのいつも泣いてる子今日亡くなったよ。病室慌ただしくなってお父さんから
娘は、今逝きましたって言われて」
妻の話がまだ全て終わらないのに、私は自宅のリビングでのたうち回る様に激しく号泣
してしまい、しばらくの間起き上がることができませんでした。
この辛い体験から娘には生きて欲しいとより強く願った。
骨髄移植
治療については数回の抗がん剤治療を進めて来たが
寛解に向けるには移植が必要と医師から告げられ
まずは、私と長女が適合するか検査することになり
妻はリュウマチのため対象から外れました。
検査の結果二人とも適合しないため、移植のドナーを探すことになり
また時間を費やす事となりました。
結果、ドナーは見つかったのですが相手方の都合で提供が受けれないとなり
振り出しになりました。
ここが、今注目されている所でせっかく骨髄バンクに登録して頂いても
仕事を休んで2~4日程入院しなくてはならないため
けっこう辞退される方も多いいようです。ここは、社会全体が意識を変えて仕組みを作らないと
ならないのではと感じます。
臍帯血移植
この状態では本人がもたないとなり、別の方法が選択されました。
それが臍帯血移植で。簡単に説明すると赤ちゃんのへその緒に含まれる血液ってことで
高齢で移植を受けれない方や緊急を要する患者に有効な手段だそうです。
また、うちの次女は体重が軽く(30㎏台)でそれも幸いしたようです。
移植に際しては部屋は無菌室状態で、正常な血液細胞も死滅させる程の強力な抗がん剤や
放射線治療を行います。
移植事態は問題なく進みました。
移植後、娘は意識が戻らず人工呼吸器を外せない状態に!!
移植後は合併症に気を付けなくてはならないのですが、娘の場合は肺の機能がかなり重篤な状況に落ちいりました。
白血病で亡くなる方の多くが合併症によるもので、正に生死の境をさまよったと言う事です。
結局、意識が戻るまでに半月ほどかかり辛い時間だったです。
しかし、意識は戻ったのに首から下が全く動かなくなり自分で何もできないという
とんでもないことになってしまいました。
なぜなのか原因はわからないが、リハビリで機能回復をしていくことになり
この事にも多くの時間が必要になりました。
最初は指一つも動かず、白血病からこんな事になってしまうのかと考えもしなかった。
本人は泣き言一つも言わず良く頑張った!!
実際のところ、文章では説明できないほどの大変な日々で
きちんと歩けるようになるまでリハビリの専門の先生がサポートして下さり感謝の言葉もありません。
白血病は不治の病ではない!!
今回の経験を通して、娘はこの病気をよく乗り越えました。
それは現代医療の進歩や担当医の適切な判断があったからだと思います。
2012年1月に退院することができ、今は社会人として頑張っています。
退院時の先生からの説明では、放射線治療の影響で背がこれ以上伸びないかもしれないと
言われました。(実際は4㎝程伸びた)
また、妊娠ができないかもしれない。(ホルモン治療にて生理はありますが、今後の課題)
ファンコニ貧血であること。(指定難病で娘は特別な例と思われる)
移植後、意識が無かった期間が一番危険な状態だった。(肺がほとんど機能していなかった)
このことから「奇跡ですね」とまで言われました。
今回の池江璃花子さんも長期の戦いになると思いますが
どうか奇跡が起き、彼女がまた活躍の場に戻れる事を願わずにはいられません。
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